木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのかを先日久しぶりに読んだ。
増田俊也氏の長編ノンフィクション。
この本は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」「鬼の木村」と言われた木村政彦の生涯、そして「昭和の巌流島」と謳われた力道山との試合での謎のKO負け、木村政彦が今のUFCに繋がる総合格闘技の始祖であること等、格闘技ファンでなくても読み応えのある力作です。
なぜ今、木村政彦なのか。
それは
2020年東京オリンピックが開催されるから
2020年オリンピックが56年ぶりに東京で開催されます。
2004年のアテネオリンピックの柔道金メダルは8個。
アテネオリンピック以降柔道金メダルの個数は、北京オリンピック4個、ロンドンオリンピック1個、リオデジャネイロオリンピック3個とアテネ大会以降減少しています。
ルールの変更等や戦い方の変化が減少の理由にもあるでしょうが、そもそも柔道の成り立ちと格闘技からスポーツ競技への移り変わりをこの本で検証したくなった。
木村政彦とは
1917年9月10日生まれ 1993年4月18日没
大外刈り、そしてのちに「キムラロック」と称されるようになった腕絡みを武器に全日本選手権13年連続保持、15年間不敗のまま引退。
講道館柔道七段、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」「鬼の木村」と讃えらる史上最強の柔道家。
一日10時間のトレーニングで170センチ、85キロの身体ながら(全盛期)圧倒的なパワーとスピードで日本柔道界のみならず、海外で他流試合も無敗、ブラジルでの伝説のエリオ・グレイシーとの試合で腕絡みでエリオ・グレイシーの腕を折りKO勝ち。
戦後は日本初のプロ柔道にも参加。
そしてプロレスラーに転向。
プロレスラーになぜ転向したかはこれは増田俊也氏の著書、木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
に詳しく書いてあるので割愛します。
プロレスラーになった訳ではなかった事は真実。
そして昭和の巌流島と言われている力道山との試合。
その後母校拓殖大学の柔道部監督で柔道界に復帰し、優勝させる。
もっと今の柔道界のみならず社会的にも評価されても良い人物です。
時代が早すぎた
木村政彦が注目されだしたのが第一回UFC大会(なんでもありの総合格闘技大会)で全く注目されていなかったブラジリアン柔術家、ホイス・グレイシーが全て一本勝ちで優勝してから。
ブラジリアン柔術は当時全く知られていなくて、元をたどると日本の柔道家、前田光世(コンデ・コマ)がグレイシー一族に柔道を教えたことから始まったことがわかりだした。
ホイス・グレイシーの戦い方はまさに「柔よく剛を制す」で相手を引き込み関節技で仕留める。
腕ひしぎ逆十字固め等、現在の柔道ではあまり見かけなくなった技で圧倒的な体格さの相手を翻弄したこと、そして無名だったホイスグレイシーって?から木村政彦が再注目されだしたのです。
ホイスはエリオ・グレイシーの六男。
そこから木村政彦とエリオ・グレイシーの一戦が有名になって来たのです。
第一回UFCが開催されたのが1993年11月、木村政彦の死後七ヶ月後でした。
もしその時木村政彦が生きていたら本人、世間はどう反応したでしょう?
これは神のみぞ知る、ですね。
桜庭和志vsホイスグレイシーの一戦
PRIDE GRANDPRIX 2000の、桜庭和志vsホイス・グレイシーの一戦で更に木村政彦が更に注目されます。
高田延彦、船木誠勝が呆気なくエリオの三男、ヒクソン・グレイシーに敗れ去った後、プロレスラーは総合格闘技では通用しない、弱いと言われていたのを桜庭和志が払拭。
桜庭和志が90分フルタイムの死闘でホイス・グレイシー、グレイシー一族の試合放棄で勝ち、日本人で木村に次いで二人目のグレイシー一族に勝った格闘家になったことがセンセーションを巻き起こしました。
ホイスと共に初来日を果たしたエリオ・グレイシーは講道館を訪問。
資料館で既に故人となっていた木村政彦の写真を見て目に涙を浮かべ、「日本に来られて本当に良かった」と語ったといわれています。
エリオ・グレイシーは95歳でその生涯を終えたが、晩年に「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家・木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っています。
その時木村政彦がエリオと対面し、そして桜庭とホイスの試合を見てどう思ったでしょう。
想像すると胸が熱くなります。
木村政彦は総合格闘技の始祖
総合格闘技では今の柔道では失われつつある関節技、絞め技、当て身が生きています。
もともと柔道は古来からあった柔術から生まれたもの。
出典 公益財団法人 講道館より http://kodokanjudoinstitute.org/beginner/about/
以下引用
柔道(講道館柔道)は、1882(明治15)年 嘉納治五郎師範がはじめました。 もともと柔道は、日本古来の武術「柔術」から生まれました。柔術は、投げる、抑える、絞める、打つ、けるなどの技を用いて、相手を制する武術です。 嘉納師範は、たくさんある柔術の流派のうち、天神真楊流と起倒流の2つの柔術を学びます。そして柔術を学ぶうちに、単に技術を身につけるだけにとどまらず、その練習を通して人の生き方・生きる道を示し、立派な人間を育てることができる、と考えるようになりました。 ついに師範は、戦う方法であった「柔術」を、人間形成を目指す「柔道」へと昇華させ、その天下の大道を学び講じる場所として「講道館」と名付け、柔道を教えはじめたのでした。(→講道館柔道の歴史)
木村は古来から伝わる柔術の技術も会得していたと言われています。
実際、乱取り稽古で当て身(パンチ、キック)も使っていたとも。
木村の大外刈りは当て身(キック)のような凄まじい衝撃が相手の足に伝わったそうです。
この本を読んで「時代が木村に追いついていれば」と思うことがたくさんありました。
木村政彦の再評価を!